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CMC|ACIDMAN|再生の祝祭「SAI 2022」開催までの転機

 

CA4LA MUSIC CONNECTION vol.12
ACIDMAN

再生の祝祭「SAI 2022」開催までの転機

 

アーティストたちにとって、作品を生み出す過程やその時々の活動の源泉には、必ず何かの転機が存在している。

「CA4LA MUSIC CONNECTION」は、アーティストのみなさまに、ご自身の活動のターニングポイントになったことを取材させていただき、お答えいただくという連載企画。

第12回目にご登場いただくアーティストは、ACIDMAN。

1997年に結成され、2022年に結成25周年を迎えた3ピースバンド・ACIDMAN。1999年に現在の編成になり、2002年にメジャーデビューして以降、人間の死生観を深淵に描き出し、それを3人とは思えないような宇宙的な規模のスケール感で鳴らすことで、日本のロックシーンの先頭を走り続けてきました。2017年には地元・埼玉で「SAITAMA ROCK FESTIVAL“SAI”」を初開催、コロナ禍に入っても動きを止めることなく、2021年にアルバム『INNOCENCE』を発表し、2022年11月には2度目となる『SAITAMA ROCK FESTIVAL“SAI”2022』を2デイズで開催。ストレイテナー、THE BACK HORN、Dragon Ashといった同世代のバンドはもちろん、再結成をしたELLEGARDENやDOPING PANDA、下の世代にあたるback numberやsumika、さらにはMr.Childrenも出演するなど、超豪華なラインナップが話題を呼び、日本のロックフェス文化の力強さを改めて示す2日間になったと言えるでしょう。フロントマンの大木伸夫さんに、『SAI』の開催に至るまでの想いを聞くとともに、CA4LAとのコラボアイテムについてもお伺いしました。

Text by Atsutake Kaneko Photo by Kana Tarumi

 
 

Interview:大木伸夫

 

 

 

  「僕は性格的に自分のことは全部自分でやりたい、典型的な中小企業の社長タイプ」  

 

まずは結成20周年イヤーの2017年に開催された一回目の「SAI」について振り返っていただきたいと思います。バンドのキャリアにおいてどんな意味のあるフェスだったとお考えですか?

 

大木 本当にやってよかったと思っていて。最初はアーティストが発信するフェスだから、あくまでひとつのイベントとして、アニーバーサリーの空気を伝えられればいいと思ってたんですけど、いざふたを開けてみたら、本当に愛に溢れたフェスになって、想像以上の感動を得ることができたんです。仲間ではあるけど、ライバル同士でもあったバンドマンたちに声を掛けたら、みんな二つ返事で「出る」と言ってくれて、まずそれがうれしかったし、チケットも数分でソールドアウトになって。「僕たちを」というよりも、「僕たちの世代のロックバンドを」愛してくれてる人がこんなにいるんだっていう、そこにもすごく感動しました。最初は「僕らごときがフェスなんて」と思っていたので、一回限りの開催のつもりだったんですけど、終わった後には「これはまたやりたい」と思うようになっていて。フェスをやるのはめちゃくちゃ大変だから、毎年とかはできないけど、漠然と「また5年後とかにできたら奇跡だなあ」と思ってましたね。

 

トップバッターの10-FEETからトリ前のストレイテナーまで、非常に同世代感の強いラインナップだったのは意図的なものだったんですね。

 

大木 もちろん。僕がフェスをやるとしたら、友達でもあり、日々ライブハウスやフェスでめちゃくちゃ刺激を受けている仲間のバンドマン全員に出てほしいと思いました。

 

日本において「ロックフェス」という文化を定着させることに大きく貢献した世代とも言えますよね。

 

大木 それはたまたま、僕たちがデビューした時期と、日本でロックフェスが盛り上がった時期がちょうど一致したっていうことだと思います。でも実際「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」とかには本当によく出させてもらって、そのおかげで今の僕らがあると言ってもいいくらいなので、僕らがフェスを主催するなら、ああいう場所で出会った仲間たちと、日本のバンドの素晴らしさを伝えられるようなフェスにしたいとは思ってました。

 

2012年の結成15周年イヤーの翌年、2013年に事務所を独立したわけですが、「自分たちですべてハンドリングできる」という面と、「自分たちでやらないと何も動かない」という面と双方ありますよね。そこから2017年の一回目の「SAI」開催に至る年月は、バンドにとってどんな時期だったと言えますか?

 

大木 独立してから「大変だ」と感じたことは一度もなくて、「もっと早く独立すればよかった」と思ったくらいです。もちろん、向き不向きはあると思うんですけど、僕は性格的に自分のことは全部自分でやりたいっていう、典型的な中小企業の社長タイプで(笑)。何か物を売るのであれば、人に任せることもできたかもしれないけど、僕の場合は自分の思想やアイデンティティを商売にしているので、どこかの誰かに責任を預けて、「俺は音楽だけ作れればいい」っていう発想にはずっと違和感があったんです。なので、プラスもマイナスも全部自分で引き受けたいと思って独立をして、そこから音楽的にも非常に自由になりました。もともと制限があったわけじゃないけど、ずっと音楽だけやってると逆に疲れてしまって、違う脳みそも使いたいっていう欲望があったので、独立をして、右脳と左脳を使い分けるような生活が始まったのは、僕にとって大きな転機でしたね。
 

 

  「コロナがなかったら、ビビって『SAI』をやらないままだったかもしれない」  

 

 

 

「もう一回『SAI』をやりたい」と思って、その後はどんな動きだったのでしょうか?

 

大木 早くやりたい思いもあったから、「2020年だったら区切りがいいかな」とか思って、さいたまスーパーアリーナは2年前から押さえなくちゃなので、2018年からちょいちょい空き状況を聞いたりはしてたんです。でもなかなか空いてなかったり、やっぱりフェスをやるのはすごく勇気が要ることで、自分に覚悟が足らなかったのもあって、「やりたいけど、やらなくてもいいか……いやでもやりたいな」みたいに思ってて……そういう中で、コロナが来たんです。  

 

でもそこで断念せずに、開催する方向に舵を切ったわけですよね。

 

大木 もしかしたら、コロナがなかったら、そのままビビってやらないままだったかもしれない。でもコロナでミュージシャンの価値がゼロになって、生きる意味がないくらいの状況になったときに、「これ今やんなきゃダメなんじゃないか?」って思いが沸々と湧いてきたんです。それで決断したのが2020年の末くらい。そこでオッケーを出さないと、2022年のさいたまスーパーアリーナは押さえられなかったので。マイナス4億円も覚悟して、「よし、やろう」って、そこで決めました。  

 

2020年の末だと、まだこの先どうなるかは全く分かりませんでしたよね。

 

大木 でもやるしかないと思ったんです。ちょっと変な、「コロナズハイ」みたいになってたのかも。  

 

「ここで動きを止めてしまうのは絶対にまずい」って、直感的に思ったんでしょうね。

 

大木 そうそう。とにかく泳ごう泳ごうって、当時から手を変え品を変えいろんなことをやってたので、脳がバーンって開いてて、だから「やろう」と思えたんだと思います。  

 

しかも、2017年が一日だったのに対して、逆風の中で規模を拡大して二日間の開催にするという。

 

大木 やるならとことんやろうと思ったんです。それから一年くらいして、具体的なチケットの金額を決めるときは、まだ人数も半分しか入れられない時期だったから、結果チケットの金額は日本のフェスの中でも一番高かったと思います。でもそれに対する不満の声はほとんど聞こえてこなくて、みんな値段以上の価値を感じてくれたので、勇気を出して決めてよかったなって。最悪でもトントンにならないと、生きていけなくなっちゃうので、そういう値付けになったんですけど、結果的にはフルキャパでできて、収益も見込めたので、いろんなことにトライできたんです。全面LEDや、プロジェクションマッピング、アーティストコメントのモニュメントや、来場者全員へ線香花火のお土産など。ご飯屋さんも豪華なものにできたり、あと今回のアーティストエリアには全面人工芝を敷いたんですよ。そうやって、フェスをより豊かなものにすることができました。  

 

アーティストエリアに人工芝?

 

大木 やっぱりフェスが作った文化っていうのがあって、「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」とかだと芝生の上で寝転んだり飲んだりするのが楽しかったけど、2020年以降はそれが失われてしまったわけですよね。2022年の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」は場所を移して開催されましたけど、全国的にもそういう場所が少なくなった中で、さいたまスーパーアリーナのアーティストエリアでその空気をちょっとでも味わってほしくて。  

 

コロナ禍の中でフェス開催に踏み切ったのは、「一度失われてしまったフェス文化をもう一度取り戻したい」という気持ちもあったわけですね。

 

大木 その気持ちが背中を押してくれたと思います。
 

 

天上人を地上におろすことに成功しました(笑)」  

 

 

チケットの値段に対して不満が少なかったのは、コロナ禍の中でフェス開催を決めたバンドの心意気を買ってのことでもあると思うし、あとはラインナップが値段に十分見合うくらい豪華だったのもあるでしょうね。

 

大木 値段を決めたときはまだミスチルさんの出演が決まってなかったから、「15,000円は高いかな。申し訳ないな」と思ってたんですけど、決まった瞬間「安すぎた!」って(笑)。  

 

あはは。全体のラインナップは一回目の同世代感を引き継ぎつつ、上の世代も下の世代もより幅広くなりましたね。

 

大木 まず前回出ていただいたアーティストには全員お声がけして、RADWIMPSだけスケジュールが合わなかったんですけど、それ以外は全員すぐオッケーをいただいて。あとは前回からの5年の中で、僕らのことを好きだと言ってくれた後輩のバンド、back numberやsumikaがそうで、あとはミスチルさんのように、僕らが昔から憧れていたバンドにも、ダメ元でオファーをした感じでした。  

 

個人的にはELLEGARDENとDOPING PANDAの出演にグッときました。彼らはともにこの5年の中で復活したバンドで、「一度失われたものを取り戻す」というフェスの意義に彼らの存在がシンクロして、非常に意味があったなと感じていて。

 

大木 たしかに、一度失われたものが復活したフェスになりましたね。僕はとにかく細美くんの歌声が大好きで、細美くんには「どのバンドでもいいから出てほしい」っていうオファーをしたんですけど、やっぱりELLEGARDENのライブを観ると、当時俺らが衝撃を受けまくったあの感じが全く損なわれず、むしろパワーアップしていて。最初は袖で観てたんですけど、思わず表まで走って出て行って、やっぱりすごいバンドだなと思いました。DOPING PANDAは復活する前に全ラインナップが決まっちゃってたんです。その後に復活するっていう連絡があって、「だったら呼びたいけどもう無理だ。ごめん」って言ってたんですけど、たまたま一組アーティストが出れなくなって、すぐユタカに連絡をして。ユタカも声を震わせながら、「マジか!」って言ってましたけど、呼べて本当によかったですね。俺らももちろんうれしかったけど、お客さんがすごく喜んでくれてるのが伝わってきました。  

 

ACIDMANと同世代のバンドを追いかけてきたファンからすると、やはりあの2組の出演は特別だったと思います。そして、もう一組特別だったのが、やはりミスチルの存在で。

 

大木 天上人を地上におろすことに成功しました(笑)。開催の一年前くらいに本気半分冗談半分で「ミスチルさんに出てもらえないかな?」って言ったんですけど、そのときメンバーもスタッフも全員が「何言ってんの?」って空気になったのは今でも覚えてます。「ap bank Fes」に出させてもらったりとか、繋がりはちょっとあったんですけど、とはいえフェスになかなか出ないミスチルさんが、まさかオッケーしてくれるとは思っていなかったので、めちゃめちゃうれしかったです。  

 

桜井さんにも「日本の音楽文化を止めちゃいけない」という想いがあったのかなと思います。なおかつ、ミスチルはJ-POPのレジェンドでもあるけど、その一方では常にオルタナティブなロックバンドでもあって、「SAI」との親和性もあったような気がして。

 

大木 そう思います。僕は高校のときからミスチルが好きで、当時はJ-POPとして聴いてたと思うんですけど、大学に入ってからはロックバンドとして聴くようになったんですよね。なおかつ、『深海』を聴いたときにさらに印象が変わって、まさにオルタナティブであり、非常にアーティスティックなバンドだということに気が付いて、今回「絶対に呼びたい」と思ったんです。  

 

自分たちのフェスで観るミスチルのライブはいかがでしたか?

 

大木 いやもう、一発目の「終わりなき旅」から……。僕各アーティストに、コメントを書いて楽屋に置かせてもらったんです。ミスチルさんにも「新曲の「生きろ」がすごく好きで、あの曲はやばいです」みたいなことを書いて、そうしたら、その曲で締めてくれた。もちろん、新曲だから最後にやっただけかもしれないけど、「終わりなき旅」から始まって、最後に「生きろ」っていうメッセージで締めるのはさすがだなと思ったし、余計なことをせず、たった一音でミスチルの世界を作り上げる、魔法みたいなことをずっとやり続けてきたバンドなんだなって、改めて思いました。  

 

「生きろ」もそうだし、『深海』という作品もそうかもしれないけど、ミスチルも死生観を描くバンドであって、そこはACIDMANともシンクロする部分かもしれないですね。

 

大木 おっしゃる通り、ミスチルとACIDMAN、桜井さんと大木伸夫って、実は似てる部分があるんじゃないかと思っていて。「真逆じゃん!」って言う人もいるかもしれないけど、歌詞を読み込んでもらえばわかると思う。自分で言うのはおこがましいですけど、でもすごく似てる部分があると思います。  
 

 

  「自分のことをわかってくれて、認めてくれる先輩の言葉に、抱きしめられたような気分になった」

 

 

 

そんなミスチルのライブを観たあとの自分たちのライブはいかがでしたか? 2日間の大トリとなるライブでもあったわけですが。

 

大木 「あとはやるだけ」というか、気持ち的には意外と楽になってました。ミスチルファンの方も含め、お客さんが僕らの前に全然帰らなかったんですよ。当たり前かもしれないけど、それがすごくうれしくて、変な緊張感もなく、堂々とやれたと思います。  

 

もちろんミスチルの前にもたくさんのバンドが出ていて、それぞれが素晴らしかったからこそ、「お目当てのバンドを観に行く」ではなく、「この一日を楽しもう」っていう、そういう空気感が出来上がっていたんでしょうね。

 

大木 おっしゃる通り、初日はスカパラから、2日目はTHE BACK HORNから、お客さんみんな最初から最後まで観てくれて、満足してもらえたんじゃないかと思います。今のフェスは「お目当てのバンドを観に行く」という人の方が多いかもしれないけど、あの2日間は全部を楽しんでくれるお客さんが集まってくれたんじゃないかな。  

 

ほかにも2日間の名場面を挙げて行けばきりがないかと思いますが、大木さんにとっての特別な瞬間というと、誰のライブのどの場面になりますか?

 

大木 BRAHMANのTOSHI-LOWのMCで大号泣しました。あの日に至るまでの中で、背負ってきたものがパンパンだったので、「2日目の自分のライブで泣かないようにしよう」っていうのはずっと思ってたんです。僕もともとよく泣いちゃうんですけど、45歳にもなって泣くわけにはいかないなって、いろいろメンタルトレーニングもして。でもまさかの伏兵というか、BRAHMANのときは全くのノーガードで、TOSHI-LOWのMCが刺さりまくっちゃって。そこで何かが外れたのか、袖で大号泣しちゃったんです。泣くと体力使っちゃうから、ライブ前は絶対泣いちゃダメなんですよ。でもまんまと彼の策略にハマり、ライブ後も一時間くらい興奮が収まらなくて、トイレでもう一回声を出して泣いて。「なんてことしてくれたんだ。もう2度と呼ぶか」って思いながら(笑)、なんとか状態を戻しました。  

 

どんなMCだったんですか?  

 

大木 「大木はバラバラな音楽をひとつのフェスに集めて結びつけてくれる。それは夜空の星を線で繋いで、星座にしたかのようなことと一緒だ」という様な事を言ってて。なんて上手いことを考えるんだと思ったし、そこまで自分のことをわかってくれて、認めてくれる先輩の言葉に、抱きしめられたような気分になったんです。自分の中では、あのときが一番のハイライトでしたね。  

 

あの2日間から約2か月が経過しました。今振り返って、2度目の「SAI」はバンドにとってどんな意味のある2日間だったと思いますか?

 

大木 本当にかけがえのない2日間で、ACIDMANのキャリアの中でもすでに外すことのできない2日間になったと思います。ただ時間が経つと、もう自分がやったとは思えないんですよね。自分がロックスターだなんて日々感じずに過ごしてますけど、あのフェスをやってからしばらくは、「俺がミスチルを呼んだんだぜ」って、どこかカッコつけてたと思う(笑)。でも最近は「ホントに俺ごときがミスチルを呼んだのか?」って、またいつもの自分に戻りつつあって。せっかく天に飛べそうだったのに、また地上に降りて来ちゃいました。  

 

でもその経験によって、きっとこれからの創作にまた変化が出てくるでしょうし、これからの日本のフェス文化にとっても、非常に大きな一コマだったと思います。

 

大木 ありがとうございます。
 

 

「(『SAI』のビジュアルアートは)とにかくエネルギーを大事にして、2時間くらいかけてヘロヘロになるまで描いた」  

 

 

CA4LAとのコラボレーションによる「CA4LA × ACIDMAN FELT HAT SAI Limited」についてもお伺いできればと思います。

 

大木 ありがたいことに、ライブ用のハットはずっとCA4LAさんにオリジナルのものを作っていただいていて、デビュー当時からずっとなので、もう20年近くは経ってると思います。今回は裏地を僕が描いた「SAI」のビジュアルアートの総柄にしてもらっていて、普通はなかなかできないことだと思うんですけど、すぐに対応していただいて。あとは色とかブリムの大きさのリクエストをお伝えしつつ、それ以外はいつもお願いしている秋元さん(CA4LAクリエイティブディレクター)にお任せしました。

 

秋元 大木くんがライブで被ってるハットはいつもアトリエで作っていて、普段はオーダーをしないと作れないんですけど、それにできるだけ近づけて作りました。

 

大木 僕が普段被ってるものよりも、ブリムの幅がちょっとだけ短いんです。ホントにちょっとしたバランスで、僕が普段被ってるのを他の人が被ると、ちょっと笑われちゃうかなと思うんですよね。

 

秋元 大げさな感じがしちゃう。

 

大木 そうそう。なので、一般的にはこっちの方がちょうどいいと思う。  
いろんなアーティストとお仕事をしている秋元さんから見ても、大木さんの帽子に対するこだわりはやはり特別ですか?  

 

秋元 トップレベルのこだわりですよ。大木伸夫か……。

 


大木 LOW IQ 01さんか?

 


秋元 正解(笑)。ACIDMANの曲と一緒で、すごくディテールを重視していて、そこは信頼に応えたいので、こちらもすごく気を使ってます。ちょっとでもバランスが違うと気付かれちゃうから、ごまかせないんですよ(笑)。うちのアトリエには大木伸夫の型があって、毎シーズンそれに合わせて作ってます。  

 

「SAI」のビジュアルアートは一回目の開催から使われていますが、もともとどのように作られたのでしょうか?  

 

大木 最初はプロのアーティストの方に頼んで、一回別のを描いてもらったんですけど、でも何か違うなーと思っていたんです。で、どうしようかと思ったときに、僕はもともと絵を描くことがすごく好きで。小学校6年間で賞状を20枚もらって、将来の夢も画家で、先生からも期待されてたんですけど、でも中1でその才能がピタッとゼロになっちゃったんです。急に下手になって、全然楽しくなくなっちゃって。それで音楽に行ったんですけど、絵自体はずっと好きで、ACIDMANの2枚目のアルバムの『Loop』とか、たまにジャケットを描いたりもしてて。それで2017年のときも「いっちょ描くか」って、アクリル絵の具とコテを買ってきて。「SAI」っていうタイトルはもう決まってたので、岡本太郎さんの「芸術は爆発だ」のイメージで、お祭りであり、花火であり、とにかくエネルギーを大事にして、2時間くらいかけてヘロヘロになるまで描いて。そのおかげで我ながらいいものができたと思うし、今回も使えてよかったです。  

 

ビッグバンのようにも見えます。

 

大木 そうそう。宇宙的なイメージもありますね。

 


秋元 これが裏地になってるって、贅沢ですよね。

 


大木 きっとできないだろうなと思って、「たぶん無理だと思うけど」みたいな感じで頼んだら、(スタッフ)「やってくれるそうです」「マジで?」ってなって。すごくかっこよくて、ホントにお願いしてよかったなと思います。  

 

 
 

 

45歳までロックをやるとは思ってなかったですけど、でもここまでやらせてもらった以上、もう一生やっていく覚悟はある」  

 

最後に、2023年のACIDMANについて聞かせてください。  

 

大木 今のモードとしては「制作をしたい」っていうのが強いです。前回のときはフェスのエネルギーをそのままツアーに持って行って、最後の武道館まで駆け抜けたんですけど、今回はまずフェスに集中して、休むわけではないけど、そこで得たエネルギーをじっくり制作にあてて、それを丁寧に世の中に届けていきたいです。夢みたいなフェスが終わって、「しばらく何もしないでいいや」ってなれればいいですけど、やっぱり人間なので、また新たな欲望が出てくるし、現実問題として、お金を稼いでメンバーやスタッフを食わせないといけない。でも、お金のためだけにやることはできないので、僕の欲望とビジネスをちゃんと合致させるために、3年から5年のスパンで青写真を描きながら進んでいくことが大事。そうすることによって、「じゃあ、今何をやるべきなのか」っていうのが明確になるんですよね。  

 

同世代には素晴らしいバンドがたくさんいますけど、ACIDMANのようなキャリアの進め方をしているバンドは他にいなくて、それは今話していただいたように大木さんが常にバンドの未来を考えながら動いていることが大きいように感じました。  

 

大木 僕めちゃめちゃビビりなんですよ(笑)。いろんなアーティストと飲むと、圧倒的にビビりだなって思う。いつも不安で、死ぬことも怖いし、病気も怖いし、食えなくなるのも怖いし、ファンが離れていくことも怖いから、常に準備をしてる感じなんです。  

 

そこから目を背けずに、しっかり現実を見つめているからこそ、バンドを丁寧かつ大胆に動かすことができて、「SAI」の開催も実現することができたのかなと。  

 

大木 そうかもしれない。45歳までロックをやるとは思ってなかったですけど、でもここまでやらせてもらった以上、もう一生やっていく覚悟はあって。ということは、これからもっとトライをしていかないといけないと思うし、その気持ちはより強くなっているので、すごくワクワクしてます。今まではどこかで「僕らなんて」って思う部分もあったけど、より高みを目指したい気持ちもすごく強くなりましたね。    

 


 

 

ACIDMAN 大木伸夫(Vo&G)、佐藤雅俊(B)、浦山一悟 (Dr)からなる“生命”“宇宙”をテーマにした壮大な詩世界、様々なジャンルの音楽を取り込み、“静”と“動”を行き来する幅広いサウンドで3ピースの可能性を広げ続けるロックバンド。 2002年アルバム『創』でメジャーデビューを果たし、以降、数々のロックフェスの大トリを務める。2017年には結成20周年の集大成として故郷埼玉県、さいたまスーパーアリーナにて初の主催ロックフェスである「SAITAMA ROCK FESTIVAL “SAI”」を開催し、チケットは即日ソールドアウト。 現在までに12枚のオリジナルアルバムを発表、6度の日本武道館ライブを開催し成功を収めている。2022年には、25周年イヤーの集大成として、5年ぶりに「SAITAMA ROCK FESTIVAL "SAI" 2022」を開催した。 大木は、薬剤師の資格を持ち、所属事務所の代表も務める。  

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